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第7話 愛されない妻の記憶③

作者: なつめ
last update publish date: 2026-07-04 14:18:14

 今、自分の髪を梳いているのはエマだ。ヴァレンティア侯爵邸の侍女ではない。実家の、昔から自分を知る、小柄で手のやわらかな侍女。ブラシが髪をすべるたび、細かな音が耳に心地よく残る。

「少しだけ編み込みを入れましょうか」

「……任せるわ」

「本日は軽めのほうがお似合いです」

 そんなやり取り一つが、妙にやさしくて泣きそうになる。

 前世でも、自分を支えたのは侍女たちだった。

 義母ではなく。

 夫ではなく。

 実家でもなく。

 眠れない夜に温かいミルクを持ってきてくれたのも。

 熱を出した朝に額を拭いてくれたのも。

 夜会のあと、黙って髪飾りを外してくれたのも。

 泣きたいのに泣けない時、何も聞かずに隣に立っていてくれたのも。

 いつも侍女たちだった。

 その記憶が蘇るほど、胸の奥がじくじくと痛む。

 侯爵夫人としての暮らしは確かに整っていた。食事も部屋も服も、何一つ不足はなかった。だが不足がないことと、満たされていることはまるで違う。あの十年は、それを骨の髄まで教えてくれた。

 朝食は、結局ほとんど喉を通らなかった。

 エマが運んできた温かいスープと柔らかなパン。玉ねぎ
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    「だったら、どうして」 気づけば声が出ていた。 低く押さえたつもりだったのに、途中から抑えきれなくなる。「どうして、何も言わなかったの」「……」「分かっていたのよね」「……ああ」「私が一人だったことも」「……」「熱を出しても、夜会のあとも、食べられない日も、全部」「……ああ」「分かっていたのに!」 最後の一音で、声が震えた。 涙が落ちる前に、視界が歪む。 こんなふうに泣きたくなかったのに。 怒っていたかったのに。 でも、怒りと悲しみが一緒に来ると、人はこんなにも簡単に声を壊すのだと、今さら知る。「分かっていて、見ていて、死んでから全部壊したって、それで何になるのよ」「……」「私は、あの時、生きてほしかったの」「……」「死んだあとで真相を暴かれたって、嬉しいわけないでしょう!」「……」「欲しかったのは、あの時のあなたの言葉だったのに!」 涙が一筋、頬を伝った。 その熱さが、自分でも情けなかった。 泣いたからといって、今さら何が変わる。 でも止まらない。 怒っている。 悲しい。 悔しい。 そして何より、彼が本当に知っていたと分かったことが、あまりに痛かった。 セドリックは動かなかった。 座ったまま、ただその怒りを受けていた。 言い訳しない。 遮らない。 それが余計に腹立たしい。 少しは否定してくれればいいのに。 そうすれば、もっと簡単に責められるのに。「私、あなたを恨んでいたわ」 嗚咽を噛み殺しながら、リリアーナは言った。「冷たい人だって。 私を愛していないって。 そう思うことでしか、自分を保てなかった」「……」「でも今は、もっとひどい」「……」「愛していたのかもしれないって、そんなことまで考えさせられる」「……」「それが一番、残酷なのよ」 セドリックの喉が小さく動く。 ようやく、彼の顔に感情のひびが入った。 痛み。 苦さ。 何より、自分が今、彼女にそれを言わせているという自覚。「……愛していた」 その声は、ほとんど掠れていた。「最初から」「やめて」 即座にそう言った。 その言葉は、今は毒にしかならない。「今さら、そんなこと言わないで」「だが」「やめて!」 自分でも驚くほど強い声が出た。 胸が痛い。 息が乱れる。 でも、そこだけは今聞き

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     その夜、リリアーナは侯爵邸の客間で、ほとんど眠れなかった。 眠れない理由はいくつもあった。  襲撃のあとで身体がまだ興奮を引きずっていること。  王都へ戻る途中の馬車で、何度も短く揺れた時の衝撃がまだ骨の奥に残っていること。  知らぬ間に握りしめていた指先が、今も少し熱を持っていること。  そして何より、あの人も前世の記憶を持っていると、もう疑いでは済まないところまで知ってしまったこと。 暖炉の火は小さく入っていた。侯爵邸の客間らしく、布も寝台も申し分なく整えられている。窓には厚いカーテンが引かれ、夜気はほとんど遮られている。女医が置いていった薬湯の匂いがまだ薄く残っていて、煎じた草の青さと蜂蜜の甘さが混ざっていた。 完璧だった。  部屋は何も悪くない。  むしろ心身を休めるにはこれ以上ないほど整っている。 なのに、リリアーナの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃに乱れていた。 同じ夢を見る人。 さっき、自分はそう思った。  同じ悪夢を知っている人。  自分が死ぬところを見て、その後も生き残ってしまった人。 でもその事実は、慰めにはならない。  少なくとも今は、少しも。 彼も知っていた。  前世の自分の孤独を。  熱を出した朝も、夜会のあとも、義母に削られていたことも、実家の打算も、たぶん全部。  知っていて、沈黙した。  そして、自分が死んだあとで初めて、やり直したいと思っている。 胸の奥へ浮かぶのは、悲しみだけではなかった。  怒りだ。  どうしようもなく、濁った怒り。  知っていたなら、なぜ。  見ていたなら、なぜ。  死ぬまで、何も言わなかったの。 寝台の上で目を閉じても、眠気はまるでこなかった。 あの沈黙。  あの目。  「毎日、そう思っていた」と掠れた声で言った時の、ひどく静かな顔。 怒鳴りたい。  泣きたくない。  逃げたい。  でも、逃げたらたぶんもう、一生この問いを抱えたままになる。 知りたいのだと、認めるしかなかった。 どうしてあの時、言わなかったのか。  何をどこまで知っていて、それでも何もしなかったのか。  自分が死んだあと、彼は何を見たのか。 そこまで考えた時、扉の外で気配がした。 遅い時間だ。  使用人なら、もっとはっきりノックをする。  エマなら遠慮のある間

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     リリアーナは返事ができなかった。 毎日。 その言葉が胸へ落ちた瞬間、痛みと怒りと、どうしようもない切なさが一度に押し寄せる。  毎日。  それほどまでに、あの人もあの十年を見ていたのか。  失くした夜を。  自分が死んだあとの世界を。  そして今、やり直そうとしているのか。 怒りたかった。  今さら、と思いたかった。  実際、そう思っている。  でも、その表情を見てしまった以上、完全に切り捨てるのは難しかった。 セドリックは続けた。「……もっと早く言うべきことがあった」 「ええ」 「もっと、別の触れ方があった」 「ええ」 「分かっている」 その「分かっている」が、前よりずっと重かった。  言葉ではなく、見たものの重さとして。「でも」 リリアーナはそこでようやく声を出した。  喉の奥が少し熱い。  泣きたいわけではない。  ただ、何かが胸の内側を強く擦っている。「やり直したいと思っても」 「……」 「失くしたものが戻るわけじゃない」 セドリックは黙った。  否定しない。  できないのだろう。 そうなのだ。  前世の自分は死んだ。  あの十年の寂しさも、冷たさも、今の自分がどれだけ言葉にできても、なかったことにはならない。  やり直しは、たぶん始められる。  でも、“取り戻し”とは違う。 その線を、彼も今は分かっているのだと、顔が語っていた。 女医が、薬箱の蓋を閉める音がした。  その小さな音で、張りつめた空気が少しだけ動く。「お嬢様、今夜はあまりお話をなさらないほうが」 穏やかな声でそう言ってくれたのは、配慮だろう。  この場の会話が、ただの体調確認ではないことくらい、年嵩の女医には伝わっているはずだ。  それでも、深入りせず、退く余地だけを与える。  その賢さがありがたい。 エマが主人の肩へ毛布をかける。  やわらかな重みが落ちてきて、ようやく身体の震えに気づいた。  怖かったのだ。  襲撃も。  記憶を共有していると知ったことも。  その両方が。 セドリックは部屋の端から動かなかった。  だが、その視線の質は少し変わっていた。  さっきまでの鋭い警戒より、もっと深いところへ沈んでいる。  問いに答えてしまった人間の、隠し場所を失った目だ。 リリアーナは毛

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     結局、その日は伯爵家へすぐには戻れなかった。 襲撃のあった場所から王都までは、通常ならそう遠くない。だが、道を塞いでいた荷車の処理や、怪我をした護衛の搬送、周囲へまだ敵が潜んでいないかの確認に時間がかかった。何より、セドリックが「このまま伯爵家へ返すわけにはいかない」と低く言い切った時、誰もそれを真正面からは覆せなかった。 伯爵家の馬車は側面を損じていたし、護衛の一人は肩を負傷していた。エマは青ざめたまま主人の傍を離れず、御者もまだ動揺を引きずっている。そういう状況を見せられれば、たとえ腹が立っていても、すぐに「結構です」とは言えなかった。 だからリリアーナは、いったんヴァレンティア侯爵邸へ運び込まれることになった。 それが決まった瞬間、胸の奥に別の種類の冷えが走った。 また、ここへ来るの。 前世の記憶が、場所と結びついているからだろう。侯爵邸の門をくぐる前から、呼吸がほんの少し浅くなる。石造りの外壁、整いすぎた庭、黒鉄の門、どこもかしこも昔と同じだ。馬車の窓から見える景色だけで、心臓が身体の奥へ少し沈む。 だが今回は、前世と違っていた。 馬車が門をくぐるより早く、玄関前には既に人が出ていた。ローレンスだけではない。侯爵家付きの老医師と、女医に近い役割を担う年嵩の侍女、それに下働きの娘が二人。湯の入った盆、包帯、薬箱、毛布。まるで最初から「誰かが傷ついて戻る」と分かっていたかのような支度の速さに、リリアーナはまた胸の奥をざわつかせた。 偶然とは思えない。  思いたくても、もう無理だ。 自分だけが前世を抱えているのではない。  あの男も、知っている。 そう気づいたあとの世界は、同じ景色でも少し違って見えた。侯爵邸の玄関ホールに満ちる蜜蝋の匂いも、磨き抜かれた床へ落ちる夕方の白い光も、すべてが“あの人もこれを知っている”という前提で迫ってくる。「こちらへ」 ローレンスが静かに促す。  セドリックはリリアーナのすぐ隣を歩いていた。触れてはいない。だが、もし足元が揺れれば即座に支えられる位置を一歩も外さない。その距離感が、今は前にも増してはっきりと意味を持つ。 彼は知っている。 前世の終わりに、自分がどこで、どう倒れたのか。  どんな血の匂いがして、どんなふうに冷えていったのか。  そして、自分の腕の中から失われたのが何だったのか

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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません    第1話 もうあなたの花嫁にはなりません③

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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません    第1話 もうあなたの花嫁にはなりません②

     窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま

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