登入「だったら、どうして」 気づけば声が出ていた。 低く押さえたつもりだったのに、途中から抑えきれなくなる。「どうして、何も言わなかったの」「……」「分かっていたのよね」「……ああ」「私が一人だったことも」「……」「熱を出しても、夜会のあとも、食べられない日も、全部」「……ああ」「分かっていたのに!」 最後の一音で、声が震えた。 涙が落ちる前に、視界が歪む。 こんなふうに泣きたくなかったのに。 怒っていたかったのに。 でも、怒りと悲しみが一緒に来ると、人はこんなにも簡単に声を壊すのだと、今さら知る。「分かっていて、見ていて、死んでから全部壊したって、それで何になるのよ」「……」「私は、あの時、生きてほしかったの」「……」「死んだあとで真相を暴かれたって、嬉しいわけないでしょう!」「……」「欲しかったのは、あの時のあなたの言葉だったのに!」 涙が一筋、頬を伝った。 その熱さが、自分でも情けなかった。 泣いたからといって、今さら何が変わる。 でも止まらない。 怒っている。 悲しい。 悔しい。 そして何より、彼が本当に知っていたと分かったことが、あまりに痛かった。 セドリックは動かなかった。 座ったまま、ただその怒りを受けていた。 言い訳しない。 遮らない。 それが余計に腹立たしい。 少しは否定してくれればいいのに。 そうすれば、もっと簡単に責められるのに。「私、あなたを恨んでいたわ」 嗚咽を噛み殺しながら、リリアーナは言った。「冷たい人だって。 私を愛していないって。 そう思うことでしか、自分を保てなかった」「……」「でも今は、もっとひどい」「……」「愛していたのかもしれないって、そんなことまで考えさせられる」「……」「それが一番、残酷なのよ」 セドリックの喉が小さく動く。 ようやく、彼の顔に感情のひびが入った。 痛み。 苦さ。 何より、自分が今、彼女にそれを言わせているという自覚。「……愛していた」 その声は、ほとんど掠れていた。「最初から」「やめて」 即座にそう言った。 その言葉は、今は毒にしかならない。「今さら、そんなこと言わないで」「だが」「やめて!」 自分でも驚くほど強い声が出た。 胸が痛い。 息が乱れる。 でも、そこだけは今聞き
「どうして黙っていたの」 「言えば信じると思ったか」 「思わない」 「だからだ」 短い答え。 だがそこにある疲れは深かった。「言葉にした瞬間、君はもっと私から離れると思った」 「……」 「それに、私はまず、確かめなければならなかった」 「何を」 「君が本当に生きていることを」 その言葉に、胸の奥へ冷たいものが落ちる。 ぞっとするほど重いのに、なぜかすぐには否定できなかった。 彼は前世で自分の死を見たのだ。 その瞬間を知っている。 そして巻き戻った今、最初に会った時のあの目。 あれは演技ではなかったのだと、今さら思い知る。 けれど、それで怒りが消えるわけではない。「……それで?」 「……」 「生きていると分かったあとで、何をするつもりだったの」 「今度こそ」 「今度こそ、何」 「失わせないつもりだった」 リリアーナは息を止めた。 失わせない。 その言い方は、あまりにも他人行儀で、あまりにも本音を隠している。 やはりこの男は、肝心なところで言葉をずらす。「またそうやって」 「何」 「主語をぼかすのね」 「……」 「失わせない、じゃなくて、私を失いたくない、でしょう」 セドリックの目が、わずかに揺れた。 それだけで十分だった。 彼はやはり、まだ本音の輪郭を言い切ることに慣れていない。 リリアーナは寝台の縁を掴んだ。 今夜はもう、曖昧なところで止まりたくなかった。「聞かせて」 「……」 「あなたが見たものを」 「リリアーナ」 「今さら優しくしないで」 「優しくしているつもりはない」 「なら、なおさらちゃんと話して」 その言葉に、セドリックは長く沈黙した。 拒んでいるわけではない。 たぶん、どこから言えばいいのかを探している。 あるいは、口にした瞬間に本当に現実になることを、自分でも恐れているのかもしれない。 やがて彼は、部屋の中央に置かれた椅子へゆっくり腰を下ろした。 寝台の正面。 距離はある。 でも、逃げない位置だった。「……君が死んだ夜」 低い声が落ちる。 その一音だけで、リリアーナの背筋が冷えた。「私は、間に合わなかった」 「……」 「正確には、間に合ったと思った」 「……」 「まだ温かかった。息も、完全には止まっ
その夜、リリアーナは侯爵邸の客間で、ほとんど眠れなかった。 眠れない理由はいくつもあった。 襲撃のあとで身体がまだ興奮を引きずっていること。 王都へ戻る途中の馬車で、何度も短く揺れた時の衝撃がまだ骨の奥に残っていること。 知らぬ間に握りしめていた指先が、今も少し熱を持っていること。 そして何より、あの人も前世の記憶を持っていると、もう疑いでは済まないところまで知ってしまったこと。 暖炉の火は小さく入っていた。侯爵邸の客間らしく、布も寝台も申し分なく整えられている。窓には厚いカーテンが引かれ、夜気はほとんど遮られている。女医が置いていった薬湯の匂いがまだ薄く残っていて、煎じた草の青さと蜂蜜の甘さが混ざっていた。 完璧だった。 部屋は何も悪くない。 むしろ心身を休めるにはこれ以上ないほど整っている。 なのに、リリアーナの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃに乱れていた。 同じ夢を見る人。 さっき、自分はそう思った。 同じ悪夢を知っている人。 自分が死ぬところを見て、その後も生き残ってしまった人。 でもその事実は、慰めにはならない。 少なくとも今は、少しも。 彼も知っていた。 前世の自分の孤独を。 熱を出した朝も、夜会のあとも、義母に削られていたことも、実家の打算も、たぶん全部。 知っていて、沈黙した。 そして、自分が死んだあとで初めて、やり直したいと思っている。 胸の奥へ浮かぶのは、悲しみだけではなかった。 怒りだ。 どうしようもなく、濁った怒り。 知っていたなら、なぜ。 見ていたなら、なぜ。 死ぬまで、何も言わなかったの。 寝台の上で目を閉じても、眠気はまるでこなかった。 あの沈黙。 あの目。 「毎日、そう思っていた」と掠れた声で言った時の、ひどく静かな顔。 怒鳴りたい。 泣きたくない。 逃げたい。 でも、逃げたらたぶんもう、一生この問いを抱えたままになる。 知りたいのだと、認めるしかなかった。 どうしてあの時、言わなかったのか。 何をどこまで知っていて、それでも何もしなかったのか。 自分が死んだあと、彼は何を見たのか。 そこまで考えた時、扉の外で気配がした。 遅い時間だ。 使用人なら、もっとはっきりノックをする。 エマなら遠慮のある間
リリアーナは返事ができなかった。 毎日。 その言葉が胸へ落ちた瞬間、痛みと怒りと、どうしようもない切なさが一度に押し寄せる。 毎日。 それほどまでに、あの人もあの十年を見ていたのか。 失くした夜を。 自分が死んだあとの世界を。 そして今、やり直そうとしているのか。 怒りたかった。 今さら、と思いたかった。 実際、そう思っている。 でも、その表情を見てしまった以上、完全に切り捨てるのは難しかった。 セドリックは続けた。「……もっと早く言うべきことがあった」 「ええ」 「もっと、別の触れ方があった」 「ええ」 「分かっている」 その「分かっている」が、前よりずっと重かった。 言葉ではなく、見たものの重さとして。「でも」 リリアーナはそこでようやく声を出した。 喉の奥が少し熱い。 泣きたいわけではない。 ただ、何かが胸の内側を強く擦っている。「やり直したいと思っても」 「……」 「失くしたものが戻るわけじゃない」 セドリックは黙った。 否定しない。 できないのだろう。 そうなのだ。 前世の自分は死んだ。 あの十年の寂しさも、冷たさも、今の自分がどれだけ言葉にできても、なかったことにはならない。 やり直しは、たぶん始められる。 でも、“取り戻し”とは違う。 その線を、彼も今は分かっているのだと、顔が語っていた。 女医が、薬箱の蓋を閉める音がした。 その小さな音で、張りつめた空気が少しだけ動く。「お嬢様、今夜はあまりお話をなさらないほうが」 穏やかな声でそう言ってくれたのは、配慮だろう。 この場の会話が、ただの体調確認ではないことくらい、年嵩の女医には伝わっているはずだ。 それでも、深入りせず、退く余地だけを与える。 その賢さがありがたい。 エマが主人の肩へ毛布をかける。 やわらかな重みが落ちてきて、ようやく身体の震えに気づいた。 怖かったのだ。 襲撃も。 記憶を共有していると知ったことも。 その両方が。 セドリックは部屋の端から動かなかった。 だが、その視線の質は少し変わっていた。 さっきまでの鋭い警戒より、もっと深いところへ沈んでいる。 問いに答えてしまった人間の、隠し場所を失った目だ。 リリアーナは毛
女医は手早かった。 傷を洗い、消毒し、薄い薬を塗る。 薬草を煎じたような青い匂いが立ちのぼる。 冷たい布が皮膚へ当たり、次に軟膏のぬるりとした感触が重なる。 動きに無駄がない。 痛みも最小限だ。 セドリックは部屋の端に立っていた。 近すぎず、遠すぎず。 こちらの手当てを邪魔しない程度の距離。 けれど、一歩も外へは出ない。 視線も逸らさない。 それが、ひどく気になった。 前世なら、こういう場で彼は「必要な処置を」と一言だけ残して、たぶん執務へ戻っただろう。あるいは外で報告を受けていたはずだ。 だが今は違う。 立ったまま、黙って、こちらの手元を見ている。 まるで一瞬でも目を離せば、何かが奪われるとでも思っているみたいに。 女医が肘の傷へ布を当てながら言った。「今日はお静かに。衝撃で身体が強張っておりますから、夜になってから熱が出ることもございます」 「熱は」 「出たらすぐお知らせください。無理に眠ろうとなさらず、温かいものを少しずつ」 「……はい」 返事をしながら、リリアーナは視線を上げた。 部屋の端のセドリックが、熱、という言葉にわずかに目を動かしたのが分かった。 まただ。 そういう細部だけ、昔から拾っていたのだろうか。 それとも、今だけなのか。 どちらにせよ、その反応を見るたび胸の奥が軋む。 女医が包帯の端を整える。 エマが水差しを取り、主人のための薄い薬湯を用意する。 部屋の中には、乾いた布の匂いと煎じた草の匂いが漂う。 静かだ。 静かすぎて、外の風が窓を撫でる音まで聞こえそうなほど。 この静けさの中で、どうしても気になっていることが、胸の中に重く残っていた。 聞きたい。 でも、直接は聞けない。 さっき馬車の中で「あなたも記憶があるんじゃないの」と言った。彼は否定しなかった。だが、明確に認めもしなかった。 今ここで、もう一度「あるのね」と詰めれば、きっと答えは出るのだろう。 でも、それをするのが、なぜか怖い。 認められた瞬間、すべてが戻れなくなる気がした。 だからリリアーナは、少し遠回しな問いを選んだ。 女医が手当てを終え、少し離れて薬箱を整え始めた頃だった。エマは暖炉のそばで湯を温めている。部屋の中の気配が一瞬、ゆるむ。その隙間に、リリ
結局、その日は伯爵家へすぐには戻れなかった。 襲撃のあった場所から王都までは、通常ならそう遠くない。だが、道を塞いでいた荷車の処理や、怪我をした護衛の搬送、周囲へまだ敵が潜んでいないかの確認に時間がかかった。何より、セドリックが「このまま伯爵家へ返すわけにはいかない」と低く言い切った時、誰もそれを真正面からは覆せなかった。 伯爵家の馬車は側面を損じていたし、護衛の一人は肩を負傷していた。エマは青ざめたまま主人の傍を離れず、御者もまだ動揺を引きずっている。そういう状況を見せられれば、たとえ腹が立っていても、すぐに「結構です」とは言えなかった。 だからリリアーナは、いったんヴァレンティア侯爵邸へ運び込まれることになった。 それが決まった瞬間、胸の奥に別の種類の冷えが走った。 また、ここへ来るの。 前世の記憶が、場所と結びついているからだろう。侯爵邸の門をくぐる前から、呼吸がほんの少し浅くなる。石造りの外壁、整いすぎた庭、黒鉄の門、どこもかしこも昔と同じだ。馬車の窓から見える景色だけで、心臓が身体の奥へ少し沈む。 だが今回は、前世と違っていた。 馬車が門をくぐるより早く、玄関前には既に人が出ていた。ローレンスだけではない。侯爵家付きの老医師と、女医に近い役割を担う年嵩の侍女、それに下働きの娘が二人。湯の入った盆、包帯、薬箱、毛布。まるで最初から「誰かが傷ついて戻る」と分かっていたかのような支度の速さに、リリアーナはまた胸の奥をざわつかせた。 偶然とは思えない。 思いたくても、もう無理だ。 自分だけが前世を抱えているのではない。 あの男も、知っている。 そう気づいたあとの世界は、同じ景色でも少し違って見えた。侯爵邸の玄関ホールに満ちる蜜蝋の匂いも、磨き抜かれた床へ落ちる夕方の白い光も、すべてが“あの人もこれを知っている”という前提で迫ってくる。「こちらへ」 ローレンスが静かに促す。 セドリックはリリアーナのすぐ隣を歩いていた。触れてはいない。だが、もし足元が揺れれば即座に支えられる位置を一歩も外さない。その距離感が、今は前にも増してはっきりと意味を持つ。 彼は知っている。 前世の終わりに、自分がどこで、どう倒れたのか。 どんな血の匂いがして、どんなふうに冷えていったのか。 そして、自分の腕の中から失われたのが何だったのか
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま







